昭和49年03月03日 朝の御理解



 御理解 第76節
 「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」

 自分の難儀を助けて貰うというから、助けるというのではなくて、人の難儀を見ておれない、と言う様な人であって、始めて神様に本当の意味で助けて貰う事が出来るのです。条件がない無条件。人の難儀を見てはおられない。そういう親切な心または神心が、助けずにはおかれない、そこには自分が助かるためといった様な者がない。条件がない無条件である。そういう人が、本当に助かるのです。私はそう思うですね。
 昨日の御理解の中に、私が昨日ご神前で頂いた、「ある日突然」ということを頂きました。その御理解の中に、聞いて頂いた通りです。今日は何か、突然何かがあるのかなと思っておりました。けれどもある日、今日は突然ということじゃないから、今日ということに限った事ではないのかも知れない。何時どんな時、何時どんな事が起こっても、ということであろうかとも思うたりしておりましたから。
 とうとう昨日も、昨日とうとうでずおかげで何もなくて、まぁ平穏無事の中に、平穏無事というかそれどころではない。もう本当に昨日は色んなおかげを受けて、お礼参拝が多い日でした。それから昨夜休ませて頂いてからすぐです、もう十二時ちょっと過ぎでした。そしたたら、お夢を頂いているんです。そのお夢がねその「ある日、突然」といった様な事でした。というのは、まぁ私共がまだ椛目におる様な模様です。
 入った過ぐん所が庭でしたが、こう見たところが庭に、椛目でもう以前行方不明になっておる方がありましてね、その人が私のほうの庭に立ってるんです。「あら、○○さんじゃないですか」というて。ところがこう逃げようとされるから。まだ若先生がね走って庭に飛び降りて行ってから、その人を捕まえようとした。それから母はまだ若い、母はもう裏からあの裸足で、その人の家に知らせねばならんというてから、裏からその裸足で飛び出して知らせに行く。
 それで表までこうやって出てから、しっつもっつしよりましたら、そのとうとう逃げられてしまった。だからその後光昭が一生懸命追い掛けて、その畑ん中か田んぼん中か、逃げよんなさるとば追い掛けて行きよる。そしたらその若先生が腹を押さえながら、あの腹を突かれたとこう言いよるんです。なら早よう来て私は、ご神前にこうやって勝彦寝せてから、腹を見ました所が、これ位ばかり突かれてから、そこから血が出よりますもん。そん時に私は瞬間にあの思った事は。
 「ははぁ今朝頂いた、ある日突然とはこう言う事であったな」とこう思ったです。だからもう神様から、そのお知らせを頂かなかったら、あの頂けなかったら、あの慌てておったのかも知れんけれども。ある日突然どう言う事が起きて来ても、そこをどっこいと受ける心がでけておると、だから夢の中でもそれを持っておると。で、他の家族の者が、まぁそれを見てからそのう、皆んなが金光様、金光様と言いよるけれども。それはもうあんまりびっくりしてから芯から、金光様と言うのじゃなくてからね。
 慌てながらもなら金光様金光様、金光様ばっかいうて、まぁうろたえている所であった。私目が覚めてから、ほんな今朝あんなお知らせを頂いてなかったら、私もうろたえてあったかも知れない。とまぁ思うておるところです。本当にあの例えば日々こうやってご理解を頂いておくということは、いざん時にそういう、例えば功徳があるですね。はぁ今朝のご理解がこうだったから、と言う所が心ん中にひらめいて来ると、そこでもうすでに安心のおかげを頂いておる。
 それからそのご神前に休ませておるのですから、あの他のもんが医者やなんとかとこういいよりました。したら勝彦君がその寝ながらももの言いよるんです。人を助ける為に怪我したのだから、致命傷じゃないっちいうてね、他の者は光昭が追いかけて行っとるから、光昭もまたやられたりせんじゃろうかって、こう心配しよる雰囲気があるんです。所がその人を助けに行っておるのだから大丈夫。と私も思いよる所です、勝彦がそういうから。人を助ける為の怪我だから。
 喧嘩口論して刺されたのじゃないから、人を助ける為に怪我をしておるんだから、致命傷じゃないと自分でいっている、もう医者は要らんぞとこういってる訳です。ははぁやっぱ、夢の中にあのう「ある日、突然」と言う事を今日は頂いたなぁと思うておりました。そしてなら今朝、ならたまたま79節を頂いてみてです、ははぁ成程深い意味合いがある事だったなぁ夕べのお夢はと思わして貰うたんです。お互いが人を助けると言う事。人の難儀を見てはおられない。
 だから人を助ける。いわばお導きでもさせて頂こうと言う心も強うなる。けれどもですね、私はそのお夢の中から、感じたんですけれども、人を助けるという親切心だから、相手にはスルスルっとその親切心が入って行けば問題じゃないのです。却って例えば信心の話をしたり、お導きをしたり、この人が難儀な模様だから、おかげを頂かれたら良かろうと思うのですけれども、相手は、分からんのですから、却って軽蔑されたりする様な、いわゆる、逆恨みを受ける様な事が、やっぱあると言う事です。
 けれども人を助けると言う事は、それから先なんです。いうならそこ迄ぐらいなら、誰でもできる言う事です。自分が実際におかげを頂いておるとするならです。そのおかげを頂いておる。その事を人にも、矢張り伝えなければおられない様な物を、生まれて来るんですけれども、それが今度は反対に返って来た時にです、私受け心が人を助ける心なんだと思うんです。例えば人を助けて反対に、いわば傷付けられるておるといった様な事がある。けれどもそこに、信心さして頂かなければならない事は。
 人を助ける事の為にこの傷だから、致命傷じゃない、それはおかげだと頂ける様な心。そこからが私はいわば、人を助ける心というのは、そこだと思います。いうならばその人の為に、また一段とひと修行させて貰うという心が、まぁいうなら取次ぎ者精神という、是は取次者と言う事は、全お道の信奉者と言う事になります。今日のご理解からいうと。人を取次ぎ助けたい、その取次ぎ者精神というのはねしんせつを持って、神心を持って人を助け様と思うた。
 ところがね簡単に助けられれば問題はないのですけれども、簡単に助けられない場合なんです。いや反対に逆に返って来る場合です、反対に傷付けられるといった場合です。そこからが、私は取次ぎ者精神だと思うんですね。人を助けるということは、私はその位な一様な事ではない、「此方は人が助かりさえすれば」と仰るがその助かる事さえ出来るという、その親切心と言うのはです、ただ助けを求めて来たままに、助けてやるというだけではなくてです。
 それが反対な事になり、困った事になり、傷付けられる様な事があってもですね、私はそこを乗り越えての助ける精神、その精神こそが、私はね難儀な時に神から助けて貰う、といういうならばおかげの頂けれる、受けものというものが、そういう心の上に頂けれると思うのです。お話をしたら、軽蔑したごとしてもうその、じゃったからもうあげな人には、もう話は聞かせん、と言う様な事ではね、こりゃ人を助ける精神じゃないです。本当に助けるというのは、其処の所を矢張り。
 もう一歩深い意味においての、人を助ける心というものが、でけて来なければならんのです。そういう心を使えれるのは、人間だけだと教えておられる訳ですね。人の難儀を、助けられるというのは、牛やら馬では、自分の子供が、水ん中に落ちておっても助ける事が出来ん。私度もが牛馬でない証拠、人間である印をです、人が助けられるということが、有り難いと心得て信心せよ。だからそういう心得を持っての信心じゃなからなければいけん。ただ自分中心ではいけない。
 しかもですなら助けるという精神はです、場合には逆になり、場合には傷付けられる様な事があってもです、一大信念を持って愈々人が助かる事の為の、信心をさして貰う、そういう心掛けが、信心に入ると教えておられます。
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